主な営業種目

 塩飢餓に苦しむ甲斐の武田信玄に好敵手上杉謙信が「塩を送った」という戦国の美談は、永禄10年(1567年)、武田太郎義信の自刃を因に、相模の北条氏康が駿河の今井氏真と通謀して武田領国への「塩留」を断行したことに端を発します  山国の甲斐、武田領下にあった信濃の領民は、生活の必需品である塩の供給を得られず、塩飢餓で固窮したことは言うまでもありませんが、この窮状を見た越後の上杉謙信は、「戦いは千を交えて行うもの」との儀をもって越後産の塩を送ることにした、と伝えられています。  この際、武田信玄の命を受け越後産塩の取り引きに使いしたのが塩屋孫左衛門(初代)で、無事信州松本まで塩を持ち帰ったのが永禄11年(1568年)正月11日、甲府に帰着したのが同14日であったとされています。  この越後塩移入の努めを果たし、国内の塩飢餓を救った活躍に対し、信玄公より当時の甲斐の国の通貨「甲州金」の裏刻印である「吉」の字を屋号として送られ、「吉字屋」が誕生しました。